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2019年10月23日
ブログ

「人道の港敦賀ムゼウム」京都市北区ミチテラス 北大路駅北山駅鞍馬口駅の不動産管理会社航海記

敦賀に釣りに行ったとき、釣果も悪く早々と納竿し町を散策しました。最初赤レンガ倉庫に行ったが水曜日は休館日で、ふと目にした「人道の港敦賀ムゼウム」に入ってみました。ちなみにムゼウムとはポーランド語で「資料館」だそうです。

 

入館料たった100円で、スケールのどでかい明治から昭和初期の日本を見た‼

敦賀市内まで私の住む京都市北区から車で2時間ほどの所要時間です。左京区の大原を通り途中トンネルを越え、途中口の交差点を右折して湖西道路を北上するか、途中口を直進して鯖街道を通ってもほぼ同じくらいの時間で到着します。

この北陸の小さな町は、明治から昭和初期にかけウラジオストクとの間に直通航路が開かれ、シベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、新橋駅(東京)・金ケ崎駅(敦賀市)間には欧亜国際連絡列車が運行され、名実ともに「東洋の波止場」として繁栄しました。当時ロシア国内は、革命・反革命の勢力が争う内戦状態でした。

大正8年、シベリアにはロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人たちが15万から20万人いたと言われています。ポーランド児童救済会のアンナ・ビルケウイッチ女史を中心に、ウラジオストクで「波蘭(ポーランド)児童救済会」が組織されましたが、頼みとしていた米国などの赤十字も軍隊のシベリア撤退と共に本国へ引揚げ援助が断ち切れ、万策尽きた委員会は日本政府に救援を求め、政府はこの窮状に深く同情するとすぐさま日本赤十字社に指示をしました。日赤の行動は早く、受入れ体制を整えると同時に、シベリア派遣の日本軍の協力を取りつけ、救助活動に入りました。申し出のあった翌月には、シベリア出兵中の日本軍によって第1次救済活動が開始されました。このとき敦賀港に入港し乗船していたのは粗末な服を 着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供たちでした。子供たちは町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食をとった後、列車で東京へ向かいました。彼らは、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児 でした。その後も上陸は続き、計5回にわたり375名の孤児たちが救われたとのことです。全てを受け入れた敦賀の方たちに頭が下がります。

 

 

そして、杉原千畝と言う素晴らしい人物。

その後昭和14年、ドイツ軍がポーランドに侵攻しソ連軍が東から攻め込みます。両国の結んだ不可侵条約の秘密条項で、分割・占領されたポーランドのユダヤ人は、行き先国の許可が取れないまま立ち往生してしまいます。ユダヤ民族の根絶政策を進めていたナチス・ドイツ軍の進撃のためヨーロッパはふさがれ、唯一彼らに残された逃避ルートは、シベリア経由で日本に渡り、そこから第三国を目指すものでした。

そして、リトアニアの日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が押しかけました。このとき領事代理だった杉原千畝は代表者5名を選ばせて用件を聞いたところ、日本通過のビザ発給を求めてきたことがわかりました。しかし杉原は、小人数であれば自分の裁量でできるが、大勢となると本国の許可が必要と、外務省に判断を求めたが却下されました。しかしながら、彼は自分自身や家族への危険、訓令違反の処分も覚悟してビザ発給を決断します。

杉原領事代理が発給した「命ビザ」を持ったユダヤ人難民が、集団で敦賀港に上陸するのは1940年のことです。その後も多くのユダヤ人難民の上陸が続きますが、翌年の6月には、ドイツがソ連と結んでいた「独ソ不可侵条約」を破り、ソ連を攻撃しました。これによって、シベリア鉄道を使った欧亜連絡が途絶え、同年6月14日の河南丸の入港を最後に、ユダヤ人難民の敦賀上陸も終わりました。今では考えられないようなお話しですが、日本人の素晴らしさ、そして、敦賀の方たちの心の優しさを実感いたしました。

 

この記事を書いた人
トラッド専務・社長の夫 充男 トラッドセンム・シャチョウノオット ミツオ
トラッド専務・社長の夫 充男
やるべきかやらざるべきか、大きな事案で本当に迷ったときは後悔しないように前向きな方向で進めています。正直なところ、これまで人生をやり直したいと思ったことが幾度かありました。だからこそ、今はそう思うことのないよう常に前向きに心がけています。営業エリアは京都市北部をメインにしていますが、京都以外の田舎の家の売買・賃貸・管理についてもご相談をお受けいたします。昭和の時代より不動産業界に携わっています。経験だけが全てではありませんが、業界歴30余年間に身につけた知恵・知識を活用出来ればと思います。
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